先日昔の知人と再会した。
再会場所は・・・新聞の中。彼は罪を犯していたのです。
こんな形で、そしてこんな内容で彼のことを知ることになるとは。
その彼とは10年以上も会っていないし、思い出すこともなかった。
その新聞を目にした日から、今となっては私との接点も関係もないその彼のことを思うとつらい気持ちになる。
彼には家族だっているし友達だっている。
そんな周りの人のことを考えると、更にたまらない気持ちになる。
非難する気持ち、哀れむ気持ち、過去を思い出す気持ちに、知人だったという事実しかない私はなぜか胸が締め付けられるようなつらい気持ちになった。
自分の子供のことについて考えてみた。
親になり、私と旦那の考えや判断で子供たちを育てている。
自分たちが育てる子供たちがどんな風に育つかなんて、今は不安よりも期待の方が遥かに多い。
不安の先には何があるのか、そして期待の先に何があるのか、子育てが始まって5年の私たちには到底想像もつかない。
子供ははじめはみんな同じだった。お母さんのお腹から生まれ、それぞれの性格を持って育っていく。
植物で例えると根っこの部分。根っこの部分から芽が出て、少しずつ枝分かれしていく。そして植物にも子供にも無くてはならない、水である親の力をたっぷり浴びて大きくなっていく。
今思えば小学校・中学校のときの成長なんて、ほんの根っこの部分だった。
頭が良い子・悪い子、スポーツが出来る子・出来ない子、そんな子供の差は、義務教育の間はまだまだ根っこに近い、枝分かれの根元の部分であって大きな差ではない。そして成長期の木は水をたくさん必要とするように、成長期の子供だって親の手をたくさん必要とする。
それが義務教育が終わり、高等学校そして、親の手が放れる成人してからの成長となると大きく違ってくる。
自分の思うようにどんどん角度を変えて枝分かれしていく。今までみんな一緒の方向の空に向かって成長していたのが、方向を大きく変えて成長していく。
大きく根を張った樹木は水をあげなくても、雨水があれば枯れずに成長していけれる。子供だって親の手がなくとも生きていける。
枝は自分なりに太陽に当たりたいと伸びて行こうとする。だから木は大きくなる。それが植物が育つ基本であって、生きていくためには当然で素晴らしいこと。
それは人間だって同じこと。大きく成長していくために学び・考え・判断している。自立した大人になることは当然で立派なこと。
でも親にとってそんな完璧な子供はいない。思うように行かない時の方がたくさんある。
そんな時子供たちには子供に戻って欲しい。親を頼って欲しい。私たち親はきっと雨水にだってなりたいと思っているのだから。
自分の子だけではない、世の中の全ての子供が、自分が思い描く未来へ枝を伸ばしていって欲しい。胸を張って太陽に当たれる場所を探して欲しい。
そして時には、雨水になって力を注いでくれする親がいることも、忘れないでいて欲しい。
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